世界史A履修のわたしと学ぶ 0からのフランス史

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本日は「ローマ帝国による支配時代編」です。アステリックスの時代ですね。

ローマ帝国による支配

といっても「フランス史」を学ぶので、ローマ帝国にはあまりツッコんでいきません。

もともと現在のフランスの地にいたのは ガリア人 / Gaulois たちでした。フランス人のルーツですね。紀元前1世紀頃、すぐ隣で猛威を振るっていたローマ帝国は、もちろんフランスの地にも手を伸ばします。カエサル / César (フランス人は「セザール」と呼びます)自らがガリアの地に趣き、ガリア人たちの地はローマ化が進んでいきます。その時のカエサルの手記が「ガリア戦記」。

その後、4世紀に ゲルマン人 / Germains の大移動が起こります。ゲルマン人は現在のヨーロッパ北部で暮らしていましたが、アジアから フン族 / Huns (フランス語だと「アン」)がヨーロッパの方へ西進してきたため、ゲルマン人たちがヨーロッパ西部へ押し出されることとなりました。

ちなみにフン族はディズニー映画『ムーラン』にも出てきますね。挿入歌『闘志を燃やせ!』のフランス語バージョン『Comme un homme(男のように)』の歌い出しは「Attaquons l′exercice pour défaire les Huns(フン族をやっつけるため練習に取り掛かろう)」です。

話は戻り、ゲルマン人がローマ帝国へやってきたことで混乱が起き、当時の皇帝の死亡も加わって、ローマ帝国は西ローマ帝国と東ローマ帝国へと分裂します。フランスは西ローマ帝国の一部となることに。しかしゲルマン人によるクーデターによって西ローマ帝国が滅亡させられ、これが500年ほど続いたローマ帝国の支配の終わりとなります。

そしてローマ時代、パリは ルテティア / Lutetia(羅) もしくは リュテス / Lutèce(仏) と呼ばれていました。パリを歩いているとたまにカフェやレストランにLutèceと名のつくものがあります。それはこの町の昔の名前から来ているわけですね。シテ島から、カルティエラタンの辺りにあった集落でした。ちなみにこの時代の文化は ガロ・ローマ文化 / culture gallo-romaine と呼ばれます。gaulois(ガリア人の)とromain(ローマ人の)がくっついた形ですね。

キリスト教都市

3世紀頃、ローマ帝国の影響を受けてか、パリもキリスト教都市となります。この時期、そんなパリで司教だったのが サンドニ / Saint Denis です。多くの人々をキリスト教に改宗させたため、異教の人々の怒りを買ってしまった彼は、パリのある丘で斬首刑に処されます。その丘というのがモンマルトルですね。首を落とされた彼は、自分の首を拾い、現在のサンドニまで説教しながら歩いたという伝説があります。最後に力尽きた場所が現在の サンドニ大聖堂 / Basilique de Saint-Denis の場所であります。サンドニと言うと今はちょっと治安がアレかな…みたいなイメージですが、サンドニという地名の由来になったサンドニさんはパリの2人の主な守護聖人のうちの1人です。

ではもう1人は誰か?それは サントジュヌヴィエーヴ / Sainte Geneviève です。先述のフン族がパリを攻めてきた際、彼女によって町が救われたとされているらしいです。彼女は次回紹介するクロヴィス王とも関わってくるので、またその時にも出てきます。

この時代の建造物

では最後にリュテスの街の建造物を見ていきましょう。

リュテス円形闘技場 Arènes de Lutèce

パリにあるこの時代の建造物と言えばまずこちら。リュテス円形闘技場。カルティエラタンにあるので割と行きやすいです。これはオリンピック直前の写真で、オリンピック中はこの円形闘技場がライブビューイング会場として使われていました。わたしはここでオリンピック開会式を見ました。パリの中で最も古い建造物の1つを「使ってしまう」のがすごいです。

クリュニー中世美術館 Musée de Cluny

こちらもカルティエラタンにある美術館で、その名の通り中世時代のものの展示が多いのですが、美術館の中と外にローマ時代の浴場があります。

シテ島遺跡納骨堂 Crypte archéologique de l’île de la Cité

ノートルダム大聖堂の目の前にある階段を降りていくと入場できるこのクリプトにはローマ時代の人々の暮らしの基盤が展示されています。こちらで詳しく書いています!

シテ島の壁の遺跡

最後にめちゃめちゃマイナーですが、シテ島にこんな看板があります。”Enceinte gallo-romaine de la cité – le trace figuré sur le sol de cette rue designe l’emplacement de vestiges découvertes en 1898″(ガロ・ローマ時代の城壁-地面にある跡は1898年に発見された遺跡の場所を示しています)とあります。

この看板が読める場所の足元はこんな風になっていて、きれいな石畳に挟まれた石の大きさもまばらなこの石畳がガロ・ローマ時代の城壁のあった場所だということ。

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